6月21日、日高地域選出の道議会議員金岩武吉先生がご逝去されました。
金岩先生は平成15年の統一地方選挙で初当選をされ、フロンティア、北海道結志会と、政党をバックに持たない中間会派に所属され、商工業や水産業、また近年はご地元のJR日高線の存続問題など、幅広い課題に向き合われてきました。
私も、平成27年に初当選をした後、平成30年9月に自民党に入党するまで北海道結志会に所属させて頂きました。最初の会派会長が金岩先生で、当選したばかりの自分に、大変温かくご指導をして下さいました。
「議会の質問は陳情するのではない。『お願いします』という言葉は使うな」
初めての定例議会で一般質問に臨むにあたり、理事者の方々と質問の趣旨確認などの打ち合わせをしていた時、金岩先生からこのような言葉をかけて頂きました。
議会議論は真剣勝負。自分の地元の案件を両肩に背負い、議会に臨む議員の心構えを説いて下さいました。
理事者の方々が、道民の想いを十分にくみ取ろうとしていないと感じた時、烈火の如く強く気持ちを出し、「それではだめだ!」と議論するお姿が印象的でした。
その一方で、徹底して理事者を責め立てることはせず、最後には双方顔が立つように配慮する心の広さを持った方でした。
何より私たち下の人間、若い者の面倒をよく見て下さいました。私と同僚の安住太伸議員(旭川市選出)は、共に北海道結志会から道議会活動をスタートし、のちに自民党に入党(安住議員は復党)しましたが、会派を移っても、定期的に会食に誘って下さいました。
議員である以前に人間として、古い言い方かもしれませんが「男」としてどう立ち振る舞うべきか。金岩先生の人生論は、決して「過去の栄光」のような、年配の方が若い人間に押し付けるようなものではなく、一言一句、含蓄に富んだ、面白いお話ばかりでした。
私が自民党に入党を目指す際、一度北海道結志会を脱会し、無所属会派に転じた時期があります。その際、かつて共にフロンティア会派に所属した経験のある角谷隆司先生(札幌市手稲区選出)に「おい、早く浅野を自民党に入れてやってくれよ。頼むよ」と、熱心に根回しをして下さいました。自派の所属議員数が減ることよりも、若い議員の行き先を気にかけて下さいました。
昨年12月の夜、安住議員と共に恒例の懇親の場を頂いてから今年に入り、体調を崩されたと伺いました。
秘書の小林雄志さんに金石先生の体調はいかがと伺いつつ、ご本人にご連絡もせず、時間が過ぎました。
「長らくご無沙汰しているな。ご連絡しなきゃ」と思っていた日のお昼、訃報を聞きました。
金岩先生はジャスマックプラザホテルの温泉がお好きで、何度もご一緒させて頂きました。「おい浅野君、一緒に風呂行くか」、「浅野君、いい質問だったぞ」と、いつも私にかけて下さった声が、とてもリアルに頭の中を響きます。
ふと、ある人のことを思い出し、久しくご無沙汰をしていることに申し訳なく感じ、連絡を取ってみようと思う時があります。そんな時、実際に連絡をするよりも、目の前にある仕事を片付けることを優先してしまい、実際に連絡をしない時の方が多いものです。
しかし、それではいけません。連絡を取りたい、会いたいと思う人がいたら、実行に移すべきです。後悔が残ります。
私も44歳になりました。32歳で初めて議員バッジをつけさせて頂いてから12年になりますが、この世界ではまだ若手に数えられる年齢です。
あと何年議員の立場を続けられるかは、最終的には有権者が決めることですが、ベテランと言われる域に自分が達した時は、金岩先生のようでありたいと、告別式に参列する中で強く感じました。
自分の人生論、成功事例を強調し、それを押し付けるのではなく、若手の行動を見守り、困っているときにそっと手を差し伸べる。本人の知らないところで若手のサポートをこっそりと、力強くする。そんなベテランにならなくてはならぬと、決意しました。
出棺の時の日高の空はとても晴れていました。昨夜の大雨が嘘のようです。
まさに金岩晴れとも言うべき、故人が生前見せて下さった笑顔のような、気持ちの良い優しい青空でした。
大切なことを教えて下さった金岩先生、本当にありがとうございました。
後継者の小林さんとも一緒になって、北海道発展のために私も頑張ります。
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