祖母に感謝。(2023年7月16日)

 私的なことを書きたいと思います。

 7月12日、今年で満101歳となる祖母が旅立ちました。

 母方の祖母、大西はしめは大正11年に生まれた戦争経験世代です。

 私が小さい頃は、夏休みや冬休みになると、釧路から十勝管内上士幌町にある母の実家に行き、いとこと遊びながら過ごすことが多く、伯父と伯母、そして祖父母に面倒を見てもらったものでした。

 父方の祖父も母方の祖父も、戦争を経験した世代です。ただ、どちらも長男だったためか、戦地の前線よりも戦争に必要なものを製造する工場で勤務をしていたそうです。

 小学生の頃、私は戦争を経験した祖父と、戦地に行くことは当然なかったものの、青春時代に戦争を経験した祖母の話を聞くのが好きでした。

 父方の祖父は、祝祭日にきちんと日の丸を掲揚する厳格な性格で、まじめそのものでした。父方の祖父の話によると、兵隊として出征していた頃は、決して悲惨なもの一色ではなかったようです。訓練の最後に行われる10㎞走で上位何着までにゴールできれば、外出の門限が少し延長されたといったエピソードも聞きました。

 母方の祖父は、とにかく偉そうにしていた上官に腹が立ち、終戦が決まった日に、仲間と一緒に上官に「仕返し」をしてやったんだと話していました。

 二人が派遣されたのは最も激しい戦地の前線ではなかったことも勿論あるのでしょうが、当時の日本軍の中にも、人間的なやり取りやちょっとした楽しみの様なものがあったんだと、子どもながら新鮮に感じたものでした。

 いわゆる「銃後」を守っていた祖母の話も印象的でした。

 父方の祖母に生前、「なんで戦争は起こるの?日本とアメリカ、どっちが正しくてどっちが悪かったの?」と質問したことがありました。祖母は「戦争は国と国との喧嘩だから、どっちが悪い、どっちが正しいというものではない。」と答えてくれました。当時はその意味が分からず、子ども向けのテレビ番組などはすべからく勧善懲悪の内容になっていたことからも、善と悪があり、悪を懲らしめるために戦争が起きるのだと感じていました。

 母方の祖母からは、戦争の話を聞いた記憶がありません。母方の祖母のイメージは、伯父と伯母に変わり孫の世話を一生懸命していたことと、十勝石の収集に熱心だったということです。若いころの苦労について話を聞かされた記憶もありません。しかし母によると、人に言えない苦労にじっと耐えながら、第一子夭折の悲しみに耐え、伯父と母をはじめ4人の子どもを懸命に育ててくれたそうです。

 40歳半ばになる私たちの世代は、戦争を経験することも勿論なく、おそらくほとんどの人間は、食うや食わずの苦しさを経験することもなく、勿論故人によって違いはあれど、自分が求める理想を追い求めることが出来た世代ではないかと思います。祖母の世代は、如何にして今日を生きる食べ物を得るかを懸命に考え、一人ひとりの夢の追求よりも、汗水たらして働き、家族が生きていけるように頑張らねばならなかった方が多いことでしょう。戦争という最大の理不尽によって命を奪われた方々も多くいらっしゃいます。 

 私たちの世代も大変なことは多々ありますが、祖父母の世代、父母の世代の皆様の懸命なご努力のおかげで、生きるか死ぬかの瀬戸際を経験する必要のない時代に生まれました。このことへの感謝は決して忘れてはならないと、改めて感じます。

 身近にいた戦争を経験した世代の人間が一人また、旅立ちました。直接当時の様子を聞かせてくれる人は、私の親族にはもういなくなりました。せめて祖父母から聞かされた当時の様子、祖父母が見せてくれた懸命に働く姿は決して忘れることなく、自分の精神の柱にし続けたいと考えています。

 15日に通夜、16日に告別式が執り行われ、私も留萌から駆け付け、祖母にお別れを伝えることができました。十勝の親戚に会えたのは、昨年5月に祖母の夫である祖父が103歳で亡くなった時以来です。

 親族が亡くなるのは悲しいことですが、それによって久しく会えていなかった親戚に会うことが出来ました。祖母が引き合わせてくれたのだと思います。

 「ばあちゃん、ありがとう」と心で呟きながら、上士幌から留萌に帰りました。

 祖母が経験したつらい過去が再び現実のものとならないよう、私も与えられた立場で頑張ることを、祖母に誓いました。

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